ひとのいのちの儚さ
季節の移ろいの早さに心が躍ることもあるが、何故か私は今、虚しく思う。
心を揺さぶられる何か衝撃的なことがあった訳でもなく、毎日 変わり映えしない単調な穏やかな日々が過ぎていく。
この頃 ふと自分がいなくなった時のことを考える。
自分は長い間、今まで何をそんなに頑張って、シャカリキになって過ごしてきたんだろう。
生きることの意味、自分に与えられた人生、それは後悔しないように生きる、と考えることで自分のなかの軸となっていたと思う。
毎日、行うべき物事や人間関係において自分なりに精一杯 頑張って来た。
だけど今 思うに、何故、そんなに真面目に律儀に一生懸命行動し、考えていたのだろう。
老後を迎えるにあたっても、多少は遊びに行かれるようにと貯金もして来た。
家族に残さないのだから、みんな使って良いと考えて。
ただ予想に反して100歳まで生きながらえてしまったらどうしよう。
その時はその時と、考えられないから始末が悪い。
みんな、みんな 使ってしまったら、
将来(まだ将来があると考えるのね?)困らない? [その時はほら、生◇保◇があるって友人が言う]
自分があれこれしたいと思い、経験して来たこと、欲しくて買った品々。ある意味では満足している。
でも旅行も山もまだ行きたい所はたくさんある、買いたいものもある。
けれどもそれはキリなくあるのだから自分でこれで良しと諦め、終止符を打たなければならない。
ある程度のところで譲歩し、自分なりに良い人生を歩んで来ていると言いきってしまう⁈
そんなことが出来る?
うーん 語彙力のない私は私の気持ちを上手く伝えられない、表せない。
階段の上り下り、今の私には何の問題もない、そのうち、二階に上がる事が苦痛になり、下る事が恐怖にかわる。
そういった事が今はない。まだ苦痛を感じない。
体力面で衰えて来た時、私は今、考えていることがどんなに甘かったと実感するんだろうか。
年を重ねる、その辛さを今は分かっていない。
そして、どうせ自分がいなくなれば何もかも捨てられ、忘れさられると言う現実。
結局、市井の人である私には何も残せるものもなく、残らない。
もしかしたら誰かの記憶の中に、突如 現れることが稀にあるかどうかだ。
何も残せないとしたら、やはり自分の後始末はしておかなければならない。
悲しいことだけど、自分がこの世からさよならする時は身一つなのだから。
自分がいなくなったとき、少しでも負担をかけないために。
もったいないから捨てられない、そんな思いは持って行かれないのだから、思い切るしかない。
今、そのときを大事に過ごす。
分かっていたことなのに。
今を生きる。
いつか自分という存在がなくなる、その日が訪れるときまで、今を大切に生きる。
自分のなかでは
自分がいままでして来たことは
何だったんだろうと思わずにはいられない。
笑い、喜び、悲しみ、淋しさ、辛さ、頑張り、憎しみ、嫉妬、まだまだあるはずだ。
それらの全てを解放し、自分の軌跡を
捨てる。
経験して来た全てを手放さなければならない。
そう思うと自分の生きてきた全てが虚しく儚い。
結局 私は自分の人生の儚さを自覚し、認めるために 、長い日々を重ねて来たのだろうか。
自分が生を受けている限り、この問題は繰り返し繰り返し、突きつけられるのだろう。
何度も何度も、もっともっとツラい
ことがらとして。